2018年5月30日水曜日

愛国者のトリック

マンションだまし売りやマンション投資には慰めもなければ安らぎもありません。あるものは感情の対立と警戒と敵意のようなわだかまりだけです。マンション投資の迷惑勧誘電話は人間を冒涜し、悪どく嘲笑します。マンション投資は狭い穴の中に閉じ籠るようなことになります。

『ギャラリーフェイク』「愛国者のトリック」は藤田が右翼の大物フィクサーの依頼を受ける。フィクサーは日本の宝である雪舟の水墨画の国外流出を阻止しようとする。志は立派であるが、行っていることはだましである。大物フィクサーの前でも軽口を慎まない藤田の反骨精神は見事である。中でも藤田の相互主義の論理は注目に値する。
フィクサーは日本の美術品の国外流出を阻止することで愛国者を任じている。一方で自分の邸宅で海外の美術品をコレクションしている。これをフィクサーは自国文化を唯一とする偏狭さはなく、海外文化も評価する心の広さと自賛する。これに対して、藤田は海外の愛国者が自国の美術品が日本に流失していることを知ったら何と思うかと皮肉を述べる。
ここに相互主義の精神がある。美術品の海外流出に反対するならば、海外の美術品を自国に持ち込んではならない。この話にはオチがあるが、相互主義の観点から正当な結末である。フィクサーは同情に値しない。

へうげもの3巻

へうげもの3巻は本能寺の変から山崎の合戦までである。作品の面白さはトーンダウンしたと感じた。松永久秀の話を聞かずに平蜘蛛の茶釜に見とれるなど名物狂いが面白かった。ところが、この巻では古田織部が名物にときめかなくなっている。代わりに路傍の草花や縄文土器にときめているが、過去の名物への熱情に比べると弱い。これは室町時代の伝統的価値観から独立した自己の美意識を形成する過程にあることを示すもので、物語としては必要なものである。
山崎の合戦に至る武将達の描き方はユニークである。徳川家康は義に熱い。黒田官兵衛は多くの場合、本能寺の変を天下取りのチャンスと捉え、羽柴秀吉を焚き付けたと描かれる。ところが、本書では羽柴秀長の方が腹黒く、官兵衛は蚊帳の外である。秀長は豊臣政権を支えた人物である。豊臣政権の失策は秀長没後から目立つ。そのために秀長は善人に描かれがちであるが、陰謀家としての裏の顔があったために豊臣政権を支えられたのかもしれない。

2018年5月25日金曜日

つながれつながれいのち

『つながれつながれいのち』は暴走車が起こした交通事故で息子を失った母親の詩集である。息子を失うという理不尽や不条理への怒りを赤裸々に描いている。日本社会は被害者に抑制を求める風潮があるが、これが自然な感覚である。不条理な目に遭ったら泣き寝入りしてはいけない。
終盤には加害者に「精いっぱい生きて」と語りかける詩もある(100頁)。過去を水に流すことを美徳とする日本社会は、この種の和解をもてはやしがちである。そこばかり注目する向きも出そうであるが、それは本書の意図とは異なるだろう。「許すことは出来ない」と書いている(98頁)。
本書にはテロの死者と交通事故の死者を比べる詩がある。テロや自然災害など一つの原因で多数の被害者が生じる場合は同情されやすい。

2018年5月23日水曜日

ブラッドライン

『ブラッドライン』は中央アジアを連想する架空の二国間の紛争地帯を軸に展開される小説である。二国の国境紛争は昔から続いていたものであるが、アメリカが一方に肩入れしたためにテロとの戦争という凄惨なものである。その紛争地帯でスーパースターが亡くなった。
章毎に視点人物と場所が変わる。ロシアや日本など紛争と直接関係ない場所も描かれる。それが戦争のやるせなさを一層強める。
日本の視点人物は全共闘世代のシニアである。これがただただ卑小な人物である。過去のイデオロギーを抱えたまま思考を停止し、自分の思想を相手に押し付けることしかしない。現代の現役世代が抱える様々な問題を理解することもできないだろう。私は現代の社会問題を解決する上で過去の運動経験に学ぶことは意味があると考えていたが、昭和の学生運動は望み薄である。
スーパースターの最後の言葉が分かった人と分からなかった人がいる。子どもは理解して大人が理解しないことは物語として納得性がある。テロ組織のリーダーも理解する側になっていることは意味深い。

2018年5月21日月曜日

命を延ばす食卓

末期ガンになったシェフの食事を紹介した書籍である。著者はシェフの妻である。
フランス料理のシェフであったが、和食中心に転換した。日本人の洋食化がガンなどの病気を増やしていることは今では十分に認識されているが、それをフランス料理のシェフが実践することは勇気がいる。葛藤があっただろう。
肉よりも魚、野菜が良いことも広く知られている。本書も、その傾向に沿っているが、肉を全く食べないというベジタリアン的な厳格さはない。料理自体は様々なものがあり、健康食の単調さはない。食材や調味料、調理法を工夫している。食材は健康を謳う高級食材ではなく、普通に入手できるものを紹介している。
調味料は、やはり化学調味料は良くないとする。外食時に店の調味料を使わず、持参したマイ調味料を使う。テレビドラマ『刑事専門弁護士』の深山弁護士のようである。調味料なしで、素材をそのまま味わえば良いと思うが、そこはソースを大事にするフランス料理のシェフらしい。
本書は和食オンリーではないが、パンは紹介されていない。パンを食べるなという主張がなされることがある。本書はグルテンフリーという言葉は使われていないが、パンの問題を考えてそうである。
本書は明示的に砂糖を問題視する。スイーツは体に悪い。これも広く知られている。

落葉の隣り

天井が高く、壁のトーンは水色です。私はスイミングスクールを連想しました。湯の温度は熱いです。体温を上げるとガン細胞は抑制されます。湯は薪を燃やして温めています。薪の効能でしょうか、風呂から出た後も長時間体がポカポカします。

山本周五郎『落葉の隣り』は時代小説の短編集である。表題作「落葉の隣り」は長屋で育った貧しい子ども達の物語である。現代の子どもの貧困にも通じる貧困家庭の問題が描かれる。やるせない物語である。誰も幸せにならない。相手のダメさを指摘する人も、その指摘は正しそうであるが、自身は酒に溺れている。
終わりに予想外の真相が明らかになるが、それで誰かが変わる訳ではない。これはやるせない。
次の短編「あすなろう」もやるせない。それどころか物語の筋も見えにくい。しかし、最後に話はつながる。ハッピーエンドではないが、それで救われた人は出る。

2018年5月20日日曜日

ダブルフェイス

『ダブルフェイス』は二つの顔を持つ男を主人公とした漫画である。表向きは貸金業者の冴えない平社員である。その正体は貸金業者のオーナーで、手品を使って社会悪を裁いている。平凡そうな人物が法で裁きにくい社会悪を裁く設定は、よくあるパターンである。本作品の特徴は、主人公が貸金業者というステレオタイプな見方では社会悪になりそうな職業である点である。第1巻では借金で破綻に追い込まれる描写はない。逆に主人公は債権や債務があるかないかという点を自分の正義の執行の基準としている。
昭和の日本はマルクス主義の影響が強いためか、社会矛盾の批判に熱心な人々は資本主義批判に走りがちであった。しかし、社会悪は不利益事実を隠したマンションだまし売りのように市場競争のルール違反になるものである(林田力『東急不動産だまし売り裁判こうして勝った』ロゴス社)。仮に百歩譲って資本主義そのものに問題提起したいとしても市場ルールの徹底が先決ではないか。その意味で債権や債務を価値尺度にする主人公は、市場経済の中での正義感を発揮しており、生活感覚に近い。

2018年5月19日土曜日

ハロー、アメリカ

『ハロー、アメリカ』は合衆国が崩壊して1世紀後を描くSF小説である。20世紀末に化石燃料が枯渇し、エネルギー危機が起きたという設定である。現実は本書のようにならなかった。
既存の油田が枯渇すれば従来は採掘が技術面や採算面で難しかった場所で採掘されるようになる。また、シェールガスのような新しい化石燃料も採掘される。さらに自然エネルギーの技術進歩も著しい。需要があれば供給が生じる。市場原理は20世紀後半の研究者が考えた以上に強靭であった。
この意味では本書は市場重視の新自由主義が勃興する以前に書かれたという古さを感じる。世界的なエネルギー危機に対してユーラシア大陸諸国は配給制など国家の経済統制を強めて生き延びた。これに対して、社会主義や官僚制の伝統を有しないアメリカは社会が崩壊し、多数の国民が旧大陸に移民していったとする。しかし、現実には国家統制は現場の需要に応えられず、無駄と非効率を生み出す。それはソ連の崩壊が実証した。本書はモスクワが世界政府の中心地のように描かれている。ソ連崩壊前の20世紀のSFではソ連のような官僚制の管理社会が未来社会と描かれがちであるが、本書にもそのような発想が見られる。
一方で本書はアメリカらしさを適切に指摘する。自立心や搾取者への健全な警戒心である(101頁)。権力の監視や分権的な制度設計はアメリカに大きく見習う価値がある。

ボルト5巻

ボルト5巻は謎の組織、殼との戦いが始まる。とは言うものの、未だ敵の正体も目的も不明なままである。科学忍具の評価は下げて上げるという物語では分かりやすい展開になった。それに利用されたボルトが面の皮である。この巻のボルトは、すっかり科学忍具嫌いになっている。努力や根性を重視して新技術を否定する前時代的な精神論になっている。ボルトはナルトの次の世代の位置付けであるが、ロスジェネ世代(就職氷河期世代)の私から見ると、むしろナルトよりも旧世代の古さを感じる。ナルトは既存の常識を破壊するヒーローであった。実はロスジェネ世代よりも若い世代の方が旧世代と親和性を持つことは不思議ではない。危険な組体操やブラック部活など今の学校を見ると昭和に逆戻りした感覚になる。
ボルトは見知らぬ人とお喋りするコミュ力が高いと評されている。これは仲間外れにされていたナルトとは対照的である。
これも個人主義的なロスジェネ世代と比べると新しい世代の特徴である。ロスジェネ世代が一人で遊ぶドラクエ世代ならば、後の世代は仲間と遊ぶポケモン世代である。コミュニケーション重視は集団主義的になり、この点も旧世代と親和性がある。個人主義的なロスジェネ世代は上からも下からも割りを食うサンドイッチ状態である。

マンション投資は、いさかいと揉め事で明け暮れます。マンション投資をすれば、激しい不安感が頭をもたげます。エフ・ジェー・ネクスト不買運動によって身体中の神経と血管が活気づきます。

2018年5月14日月曜日

ブラックペアン4話

マンションだまし売り営業やマンション投資の迷惑勧誘電話営業は薄汚い悪党です。

ブラックペアン第4話「小さな命を救って!スナイプ完結最終章」が放送された。渡海の台詞「古いやり方にも強みはある。前に進むだけが医療ではない」は名言である。他の分野にも当てはまる。焼け野原から経済大国にすることを誇るような前に進むことしか考えない戦後日本社会にとって重要である。
今回は渡海が佐伯教授の逆鱗に触れて干される。医局員や研修医の渡海の評価も手のひらを返したようになるが、視聴者は第1話から第3話まで渡海の凄さを見せつけられている。どうせ手術で立ち往生すれば渡海を呼ぶのだろうとしか思えない。
「渡海先生は寝てばかり」と馬鹿にするが、いざという時に成果を出すために普段寝ることは重要である。直立不動で待機するような真似は旧日本軍の悪癖である。仕事ができる人は日本的集団主義に馴染まない。
冒頭ではスナイプが実績を重ねていることが描写される。これも視聴者は第3話までスナイプの問題を見せつけられている。むしろスナイプは心臓の手術箇所以外が健康でないと問題が起きるものである。だからスナイプが普及しても神の手や悪魔の手が不要になるとは思えない。医局員のスナイプ株上昇は彼らの底の浅さを示すものである。

2018年5月13日日曜日

ドバイにはなぜお金持ちが集まるのか

福田一郎『ドバイにはなぜお金持ちが集まるのか』(青春出版社、2008年)はドバイの経済的繁栄を解説した書籍である。ドバイは砂漠ばかりで石油も出ない、夏は酷暑で過ごしやすくもないという悪条件が重なっている。立地を重視する日本の不動産業界ではマイナス評価されそうである。ところが、今やドバイは企業や観光客の集まる最先端の国際都市である。
その理由を本書はドバイが平等で誰にでもチャンスを与えてくれるからとする。「ドバイには、外国人だから、外資だから、会社が小さいから、新しい会社だからというような差別は一切ない」(6頁)。
この「開かれた」「平等」は、お金のある人に開かれたというものである。日本のように資金や意欲があっても官僚の裁量や業界横並びの圧力で潰される社会に比べれば公正である。一方で先立つ物を持っていない人々にとって、開かれたと感じることができるかは問題である。
ドバイは君主制で民主主義はないが、良い意味で小さな政府の効果がある。「税金がないので政府による税金のムダ使いもないし、政治家がいないということは腐敗や汚職、無能な政治家も存在しない」(83頁)
税金がなければ無駄遣いもない、政府の権限が少なければ非効率な権限行使も少なくなる。これは良いが、国民の監視なしに権力の腐敗を避けることができるか。現時点のドバイでは上手くいっているとして、日本の公務員マインドでは無理だろう。日本の権力者は、負担を押し付けることは好きだが、相手の選択に委ねることができない。
権力の監視は民主主義的な仕組みに限らない。腐敗した政府の下では外資が逃げるという市場原理に委ねる方法もある。その場合も透明性が不可欠である。しかし、日本の公務員マインドは情報公開の点でも遅れている。

2018年5月12日土曜日

埼玉地名の由来を歩く

谷川彰英『埼玉地名の由来を歩く』(ベスト新書)は埼玉県内の地名の由来を解説した新書である。タイトルに「歩く」とあるように現地を歩いて写真を撮る紀行文の要素もある。
埼玉の県名は行田市にあった埼玉村に由来する。テレビドラマ『ブラックペアン』第3話では行田産さいたま米で卵かけご飯を作っていた。この埼玉の由来を踏まえると浦和市、与野市、大宮市が合併して、さいたま市を名乗ることは地理的には正しくない。足立郡に位置し、埼玉郡ですらなかった。
一方で埼玉は幸いの魂という意味であり、素晴らしい名前である(32頁)。この名前を名乗ることは素晴らしい。
本書から最初に感じたことは埼玉県は広く多様であることである。明治時代の廃藩置県後に埼玉県と入間県に分かれていた。入間県は熊谷県となり、群馬県に編入されたこともある(38頁)。埼玉としての同一性を強調するよりも、多様性を尊重したい。
本書は官僚主義的な都市計画によって歴史的な地名や風景が失われることを残念がっている。川口には善光寺があるが、荒川のスーパー堤防建設によって立ち退きを余儀なくされた(98頁)。
著者は埼玉ではなく、地名の専門家である。その著者は「太陽や月が自分たちの住む土地の名前になることは百パーセントあり得ない」と指摘する。「地名の命名は他の土地との識別を目的とするものであり、その意味で、月や太陽を自分たちの土地だけに占有することは考えられない」(131頁)

封神演義2

『封神演義』2巻では太公望は大きな挫折を味わう。ここで太公望は自分一人では強大な敵を倒すことができず、仲間を集めることが必要との教訓を導き出す。筋の通った展開である。
一方で太公望が生き延びただけでなく、霊獣や宝貝を取り戻す展開は、主人公に都合良過ぎる展開である。最初は弱い主人公が最後に強大な敵を倒す長編バトル漫画では、よくある御都合主義的展開である。これはラスボスの油断や遊び、慢心と説明されることが多い。本作品の敵キャラも油断や遊び、慢心が似合っているが、本作品では意図的に逃がしたのだろう。後の文王を殺さない点にも重なる。
この2巻で歴史の道標との言葉が出てくる。周王朝を興してめでたしめでたしにしない本作品の結末は、この段階で構想されていたのだろう。

2018年5月11日金曜日

怪盗ニック全仕事5

『怪盗ニック全仕事5』は価値のないものだけを盗む怪盗ニック・ヴェルベットの短編集の5冊目である。5冊目ともなると主人公も年をとり、アクションは向かない体になった。作品内でキャラクターが年をとっていく点はアガサ・クリスティのポワロやミス・マープルと共通する。日本のサザエさんやドラえもんとは異なる。
5冊目ともなると依頼に応じて盗むだけではないパターンも出てくる。警察に協力する形になった話は評価が分かれるだろう。アウトローの魅力は警察権力に与しないところにあるからである。依存性薬物を注射して薬物中毒死に見せかける殺人犯を突き止めることは良いだろう。薬物犯罪は反社会性が高いためである。一方で警察官は公正な取引ができる相手ではない。
英米のミステリー作品を読むと感じることは、被疑者の人権が尊重されていることである。本書では被疑者の要望を尊重して、弁護士ではなく、フリーのコンサルタントを名乗る人物が被疑者との接見が認められている(「レオポルド警部のバッジを盗め」117頁)。取り調べは弁護士同席の上、録画されている(「サンタの付けひげを盗め」228頁)。
被疑者の人権尊重は警察が冤罪を作り出すことを自覚しているためである。本書には「警察は罪を負わせる男がすぐに必要なんです」との台詞がある(「サンタの付けひげを盗め」224頁)。

2018年5月8日火曜日

深川安楽亭

「人をぺてんにかけたり、かっぱらいや押し込みをするような人間をあたしは知っているし、そういう人間から煮え湯をのまされたこともある、いまでも忘れやしない、生涯忘れることはできないだろう」(「夜の辛夷」169頁)
「自分が困ってくると、どんな悪企みをするかもしれないわ。そうよ、決して油断はできないわ」(山本周五郎『おさん』新潮文庫、1970年「みずぐるま」113頁)
山本周五郎『深川安楽亭』は時代小説の短編集である。さいたま市立桜図書館で借りて読んだ。表題作「深川安楽亭」は異色の作品である。会話文が多く、物語の流れが見えにくい。
深川や木場など江東区に馴染みの地名が登場する。運河が縦横に走っており、水運の拠点であったことをうかがわせる。
最初の短編「内蔵允留守」は中学校の国語の教科書に掲載されていた。道を究めるということが、戦後の高度経済成長やバブルのような拡大路線とは異なることを教えてくれた作品である。中学生が全てを理解できるものではないとしても、それでも衝撃を与えた作品である。学校の授業は無意味ではないと感じさせる。国語という科目名では無味乾燥としたイメージになるが、文学の授業とすれば豊かになるだろう。
次の短編「蜜柑」は徳川御三家の紀州和歌山藩が舞台である。蜜柑は和歌山の名産であるが、紀州藩が育成した産業であった。
紀州藩は時代劇では幕府転覆を企む悪役として描かれることもあるが、ここでは南海の鎮の面目躍如である。そして内蔵允留守ほどではないが、華々しい活躍よりも地味なところに価値を見出だすものがある。明治時代の追いつき追い越せでも、戦後昭和の経済成長でもない価値観である。

2018年5月7日月曜日

ブラックペアン第3話

渡海は過去二回のスナイプ手術で起きた問題を、これからスナイプ手術を受ける患者に説明した。不利益事実を説明する点で東急不動産だまし売り裁判原告として高く評価する。不都合な事実を隠した騙しには吐き気がするほど怒りがこみ上げる。
患者への説明責任を果たす渡海であるが、同僚への説明は乏しい。もう少し丁寧に説明したら、円滑に進むと思わないこともないが、それも良い。働き方改革で無駄な仕事の撲滅が求められているが、無駄な仕事の多くは会議時間である。逆に働き方改革の抵抗勢力がコミュニケーションを強調して、密なコミュニケーションさえあれば解決すると考える傾向がある。この点でも渡海はCOOLである。
前クールのドラマ『刑事専門弁護士』では様々な料理が登場した。ブラックペアンでは様々な産地の米が登場する。3話では埼玉県産の米であった。料理は卵かけご飯一本槍である。卵かけご飯の消費が増えるのではないか。主人公が三ツ星レストランを有り難がるのではなく、粗食を楽しむタイプであることは清々しい。
今回は第1話と第2話の血がプシューのような心臓に悪いシーンはないもののが、手術シーンは息もつかせぬ展開であった。どぎついシーンがなくても視聴者をドキドキさせる。表現が洗練されている。
渡海は治験コーディネーターから紙袋を貰っていた。ジェネラルルージュのような結末になるのだろうか。

2018年5月6日日曜日

しびらきマーケット

さいたま市桜区の、しびらきファームいちご園で、しびらきマーケットが開催されました。鯉のぼりが飾られていました。いちご園は鴨川堤桜通り公園を歩いていくとあります。途中の田んぼではカエルが鳴いていました。
私は紅ほのかとメロンパン、はちみつバターパンを買いました。もぎたてのイチゴは温かく、甘いです。紅ほのかは、さがほっぺより大粒です。パンは蜂蜜などで甘さを出しており、上品な甘さです。
子ども向けキャラクターグッズでは、アンパンマンが目立ちました。私の子どもの頃は、アンパンマンは絵本の存在であり、エンタメの印象は乏しかったです。今の子どもにアンパンマンが大人気なところを見ると世代を感じます。
アンパンマンのマーチは頭の中でリフレインされる曲です。実は「みんなの未来(あした)を守る会」という団体名を聞いた時にアンパンマンのマーチの「みんなの夢守るため」を連想しました。
私の子どもの頃から変わらないキャラクターと言えば、ドラえもんです。ドラえもんの大きな人形もありました。浦和らしく、サッカーボールを持っているドラえもんもいました。

2018年5月5日土曜日

七時間半

獅子文六『七時間半』は特急列車を舞台としたドタバタ大衆小説である。東海道新幹線ができる前、東京から大阪まで七時間半かかっていた時代である。
乗務員や乗客の恋模様が中心であるが、乗客の総理大臣を狙って全学連トロツキストが爆弾を仕掛けたとの噂が広がる。戦後昭和の風俗を反映した作品である。全学連トロツキストの噂も当時の風俗の反映であるが、作品内での存在感は小さい。存在感はスリ以下である。それは、そのまま当時の人々の感覚になるだろう。
本書の乗客は「日米条約なんて、賛成でも、反対でもないんだ、自分の安全保障の方が、忙しくて、あんな問題、どうでもよかったんだ」と語る(273頁)。これは当時の人々の一つの感覚だろう。学生運動家だったシニア世代の回顧談を聞くだけでは偏ったものになる。
本書には強盗資本が伊豆半島を乱開発しているとの説明がある(145頁)。これは東急不動産だまし売り裁判原告として笑った。強盗資本とは強盗慶太の東急グループだろう。
面白さは時代が変わっても通用するが、21世紀の現代と最もギャップがある点は女性の意識だろう。男を手玉に取ることが楽しみという女性は昭和の男性からの女性観に見える。セクハラであるか否かについて世代によって受け止め方に、絶望的な断絶が生じることは仕方がないのだろうか。
私は男性であり、セクハラ被害者の痛みが本当に分かるかは分からない。しかし、個人に負担や我慢を押し付け、前向きに頑張ることを強要する昭和的なガンバリズムには嫌悪を覚える。

2018年5月3日木曜日

魔法使いの陰謀

『魔法使いの陰謀』は現代ニューヨークを舞台とした魔法ファンタジー小説である。「フェアリーテイル」シリーズ第三弾である。ニューヨークでは妖精の関与が疑われる事件が続発する。魔法使いのジョセフィーンは魔法使いと妖精の対立を煽る。ソフィー達は魔法使いと妖精の戦争の危機を食い止められるか。
本シリーズの魅力はファンタジーと現代ドラマの両方の要素が詰まっていることである。現代ドラマの方は政治的正しさを無視した現代エンタメになっている。「ヒスパニック地区でバレエを観るやつなんかいない」との台詞が出てくる(223頁)。人間であるが、妖精の性質を吸収した存在を「名誉妖精」と呼んでいる(400頁)。アパルトヘイトの名誉白人を連想する表現であるが、悪い意味で使っていない。エンタメ作品が政治的に正しい必要はない。
マイケルは刑事としては柔軟な思考の持ち主である。だからファンタジー作品のレギュラーになれる。一方で本書では市民感覚とはギャップがある警察組織の人間的なところが描かれる。マイケルの見込み捜査的な進め方は、ソフィーに「警察はいつもそんなふうに捜査をするの?まず容疑者を決めて、それから証拠探し?」と呆れられた(153頁)。
不審な妖精をソフィーとマイケルで尋問するシーンではマイケルがソフィーに「いい刑事と悪い刑事のどっちをやりたい?」と尋ねている(163頁)。悪い刑事が脅した後で、いい刑事が優しくして自白させる古典的な手口である。日本ならば人情派刑事が被疑者を落とすパターンであるが、米国ではロールプレイのゲームでしかない。

四日のあやめ

山本周五郎『四日のあやめ』は江戸時代を舞台とした時代小説の短編集である。最初の短編は「ゆだん大敵」である。ここでは武士道を究めるストイックさが描かれる。名人とは、仙人のような存在になる。右肩上がりに拡大する感覚とは正反対である。
ストイックな美しさは料理にも表れている。粗末な食材を使うからこそ美味しい、それこそが食事であるという。食材の価格と味が比例するというような浅ましい拝金主義を否定する。
「貧窮問答」は御家人の屋敷に奉公する臨時雇の中間の話である。だまされる話かと思いきや意外な結末になった。本書の短編には、よくある人情物のように見えながら、意外な結果になる話が他にもある。
表題作の「四日のあやめ」は何が正しい選択なのか考えさせられる。六日のあやめは遅すぎて意味がないという、たとえである。
最善手は私闘を防ぐことだろう。私闘に参加しなかったから良かった、良かったとは本来ならない。上位者ならば私闘が起きたことに対する管理責任が問われる。もっとも、それでは夫婦の物語にならない。
最後の「榎物語」は恋愛物である。愛の力を描く話を予想させたが、シビアな結末になった。