2017年1月20日金曜日

上杉征伐と関ヶ原の合戦

#歴史 #日本史 #戦国時代
ロジスティックスを各大名に任せるならば、大名家毎に自己完結させる必要があります。このロジスティックスを各大名に任せる方針は参勤交代にも引き継がれました。その代わり幕府は街道という各大名のロジスティックスのためのインフラを整備しました。
徳川家康の上杉征伐ではロジスティックスは各大名に任されたために、その準備で出陣が遅れた大名家も出ました。小早川家や長宗我部家、脇坂家などです。徳川家康は見切り発車で出陣しました。その結果、出陣が遅れた大名家は西軍に取り込まれてしまいます。これが家康にとって、ついてこれない大名を葬り去る意図的なものか、想定よりも西軍が大軍になって狼狽したかは歴史の解釈の面白いところです。
上杉征伐はロジスティックスを各大名で行うとしましたが、石田三成が挙兵し、大阪方を掌握すると、それを貫徹できなくなりました。九州の黒田家や四国の藤堂家、加藤家のように領地が大阪の先にある大名にとって敵地を通る輸送は絶望的です。それどころか、細川家は領地が西軍に攻め込まれました。このような状態ではロジスティックスを大名の自己負担にできません。徳川家が負担せざるを得ませんが、豊臣家の奉行衆のように諸大名のリソースを一元管理する方法はポリシーに反します。上から目線で余ってそうなところから足りなそうなところに回すようなことを命じても、現実は上手く回らないものですし、諸大名から反発も受けるでしょう。
そこで家康は斜め上の解決策を採りました。東海道の諸大名の領地を徳川家が預かることでロジスティックス問題を解決しました。自分の領土のことですので、徳川家が一元的に管理することは問題ありません。このエピソードは山内一豊の心意気を示すものと描かれがちですが、単なる精神的なノリではなく、経済的な意味がありました。
いつまでも司馬遼太郎の歴史観ではないだろうということです。司馬遼太郎の明治の歴史観は批判されるようになりましたが、関ヶ原も見直しが必要です。

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