2016年7月4日月曜日

候補

反応が遅くなりましたが、率直な見解であることは好感が持てます。この候補者はダメという本音を隠して野党共闘などもっともらしい大義を振りかざす卑怯な論理よりもよほど清々しいです。このため、このような論理に対して私が申し上げられることは乏しいのですが、一つ申し上げるとすればノーサイドという話ではなかったかということです。
何故、あれほどにもディスられたかですが、様々な人が様々な理由から主張していることですが、私の考えを述べます。そこに溝の深さを感じます。ディスられる理由は明快であり、何よりも許せないことは夜中の自宅突撃です。何しろ、消費者金融の返済滞納者や家賃滞納者に対して取り立て屋が深夜早朝お構い無く取り立てに来る、そのような状況をなくす運動がコアになっています。サラ金やゼロゼロ物件などの貧困ビジネスと闘う運動家が一番怒りそうな所業です。行為者の主観的意図を批判する以前に行為者の外形的な行為を否定しています。主張内容ではなく、態度の問題です。ここにディスる側の大きな怒りとディスられる側の無自覚の大きな溝があります。
何に対して怒っているかは理解して欲しいと思いますが、難しさも感じています。行為者は主観的にはサラ金や貧困ビジネスの取り立て屋とは全く異なるところから出発しています。それをサラ金や貧困ビジネスに対してと同じように批判されて、その批判を真摯に受け止める心情になれるかという問題です。叩かれ過ぎと感じるかもしれません。それどころか、相手側に対して、こちらの主観的な真面目さ、必死さを汲み取って、態度の無礼には目をつぶることが度量の大きさを示すものという感覚があるかもしれません。
古い昭和の劇画の使い降るされた筋書きでは主人公が敵対するヤクザの大親分の家にアポなしで単身乗り込み、大親分からその勇敢さを認められて主人公に都合よく話が進む展開があります。このようなものをカッコいいという感覚があるとすれば、そこには大きな世代ギャップがあります。
そもそも元首相二人が今度はこちら側で闘うというシナリオも昭和の劇画的です。それに盛り上がれる世代ばかりではありません。先の都知事選挙の分裂に世代間対立の側面があったことはよく指摘されていますが、このような点にも表れています。
たとえば幕末物では昭和の感覚では対立していた薩摩と長州を結びつけた坂本龍馬が圧倒的なヒーローでしたが、現代では新撰組や会津に美学を感じる向きも普通です。

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