2016年2月9日火曜日

市民派統一

市民派統一の機運が高まっている。これは大いに結構なことである。市民派統一を成功させるためにも、これまでの動きの問題点と今後の懸念を指摘したい。
市民派の結集や統一ということは以前から唱えられてきた。その流れの不思議なところは、市民派が共産党候補への結集には中々ならないことである。五五年体制の革新的な政治意識が強い人でも、鼻をつまんでも投票するとすれば共産党ではなく維新になることは政策を判断基準とすると不可思議である。当選可能性を考えたと説明されることが多いが、それは言い訳である。共産党候補が選択肢にならない、共産党よりも維新の方がいいと思える要素があるのだろう。それを現実的な意味を持たない反共意識と批判することも可能である。「反共バカの壁」と揶揄する声もある。
私も統一や結集を唱えながら、共産党には黙って自分達の枠組みに乗ることだけを求める一部市民派の傾向に不公正さを感じる。その統一・結集圧力には暴力牲さえ感じる。この統一・結集圧力の従来の被害者は日本共産党であった。この点で私は共産党に同情的であった。
一方で結集やら統一やらを至上価値とする市民派ならば、その反共意識さえ取り払えば雪崩をうって共産党に結集するという可能性もなきにしもあらずである。その萌芽となりそうな動きも見られる。これは結集や統一を掲げながら共産党外しをする市民派の欺瞞を批判する立場としては改善となる。しかし、その反共意識の思想牲の浅さを露呈させるものでもあり、無節操さを批判できる。何よりも過去の反省がなければ同じ過ちを繰り返すことになる。
もし市民派が共産党にも結集となった場合、共産党は統一・結集圧力の被害者から利益を得る側に変わる。それは今日、誰が最も熱心に野党共闘を求めているかを考えれば理解できることである。
もし一部市民派と共産党がタッグを組んで統一・結集圧力を唱える側になったとしたら、その圧力は従来の一部市民派の活動の比ではなくなる。共産党は共同当事者の対等平等を主張しており、統一・結集圧力を抑圧的に振りかざすようなことはないと信じているし、それでは御都合主義に陥る。これまで統一・結集圧力に流されなかった立場としては統一先が変わったというだけで統一・結集圧力に同調することはない。

0 件のコメント:

コメントを投稿