2014年9月2日火曜日

林田力・コモンズ論

元々の問題意識は通俗的マルクス主義が現代日本に通用しないということであった。それどころが通俗的マルクス主義では官僚支配や土建国家という問題意識においては体制擁護の論理として機能する危険がある。その意味でハーヴェイのように現代社会においてマルクス主義を解釈しようという姿勢は有意義である。
私見の危惧はハーヴェイそのものよりも、権利意識の低い日本でコモンズのような考え方がもてはやされると、市民運動が私権を制限して行政目的に奉仕させる官僚のお先棒を担ぐことになりかねないという危惧である。通俗的マルクス主義批判の延長線上のものである。
日本の市民運動界隈では原子共産制への無意識的な憧れが感じられる。それは国家による個々人の所有権の侵害に対する問題意識の弱さの背景になっている。それが通俗的マルクス主義となっているが、マルクスならば「空想から科学へ」と主張するだろう。現代社会においてマルクス主義を突き詰めることも通俗的マルクス主義批判の一つのアプローチになる。
その上でコモンズ論にコメントしたい。コモンズ自体は善なるものではなく、価値中立である。ハーヴェイが例に挙げるように富裕層のゲーテッドコミュニティーもコモンズである。故にコモンズの増加を無条件で賛美することはできない。ナイーブな原始共産制賛美のユートピア主張とは異なる。
良いコモンズもあれば、悪いコモンズもある。良いコモンズを増やし、悪いコモンズをなくすことが方向性になる。その場合に良いコモンズとは何かが問題になる。自分達にとって都合の良い運動が公共空間を占拠することは善で、大資本のためのコモンズは悪と言うならば、ダブルスタンダードになってしまう。
ハーヴェイはコモンズから様々な新たなコモンズが生まれるような場を志向しているが、これは難しい。道路を占拠したならば通行路としての機能は排除される。広場を占拠したら、景観が変わってしまう。デモ側にとっては既存秩序の象徴になっている景観をデモで埋め尽くすことが、コモンズを奪い返すことになる。だから正当化されるが、万人にとって良いコモンズではない。既存秩序の支持者側に開かれたものではない。
運動内部でも脱原発のデモで労働組合の旗を立てることが規制されたように、コモンズは万人に開かれたものではない。運動主体が多様性を尊重する姿勢を持つことは重要である。しかし、何らかの目的を持った運動である以上、価値中立ではない。また、多様性尊重はレッセフェールを意味しない。脱原発デモで労働組合の旗を立てさせないことが逆に参加者の多様性をもたらすという面もある。
開かれた姿勢を持つことは大切であるが、そこには限界があり、コモンズが誰かの不利益になることは否定できない。結局のところ、自分達の利益になるから良く、自分達の不利益になるから悪いという御都合主義に陥ってしまう。それではブラック企業やブラック士業を批判できなくなる。
私は派遣村や官邸前デモには好意的であるため、もう少し突き放して考えられる経済産業省前テントひろばについて考えたい。土地所有者の立場としては、テントひろばのような論理で占拠されたらたまらないという思いは共感できる。自分達の主張は正しいのだから、それに協力しろでは独善である。たとえ使用していない土地で占拠されることに実害がなくても、自己決定権を無視する形で占拠されたならば排除することに全力を尽くす。それが一生懸命の語源となった一所懸命以来の土地所有者の心意気である。派遣村は緊急避難的な意味で占拠の必然性が感じられる。官邸前デモは政策決定権者への示威であり、目的と手段が結び付く。これに対してテントひろばは他に脱原発のアピール方法が存在する中で必然性は弱い。
脱原発運動が経済産業省の敷地の一部を占拠することは、原子力村にとって不愉快な事態だろう。だからテントの正当性への疑いを口に出すよりも、テントを擁護することが脱原発派として正しい態度であるとの考えもあるだろう。しかし、それは脱原発のためならば何をやってもいいという御都合主義そのものである。
この御都合主義への懸念もハーヴェイ批判にはならない。ハーヴェイは階級闘争の視点に立っているためである。極論すれば自分達の階級の利益を追求することは階級闘争そのものになる。この立場に立てばダブルスタンダードも正当化できるが、階級闘争の視点を共有しない立場とはギャップがある。それ故に個々人の権利尊重をベースにしたいと考える。

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