2013年11月24日日曜日

『人という怪物』

パトリック・ネス(Patrick Ness)著、金原瑞人・樋渡正人訳『人という怪物』(東京創 元社、2013年)はアメリカのSF三部作「混沌の叫び」(Chaos Walking)の最終巻である。「混沌の叫び」シリーズはノイズという設定を作り、ノイズを普通の文字と字体を変えて記述するという斬新な小説表現になっている。

本書はトッドとヴァイオラの二人の視点人物の物語が交互に繰り返される。視点人物がピンチに陥るなど物語が動くタイミングで、視点人物が切り替わり、それまでの視点人物がどうなったか分からなくなる。そのために早く先を読みたくなる。これは前作『問う者、答える者』と同じであるが、本書では新たな視点人物が加わった。

本書は先住生物スパクルの攻撃で幕を開ける。人間はスパクルが暮らしていた星に後から入って我が物顔で振る舞う植民者である。しかも、人間はスパクルを奴隷として扱い、虐殺までしている。まさに人間は怪物であり、スパクルの怒りに感情移入できる。

人間とスパクルの関係は、アメリカ大陸の白人とネイティブ・アメリカンの関係を連想する。スパクルの名前の付け方もネイティブ・アメリカン風である。ネイティブ・アメリカンの苦しみを連想させ、自国の負の歴史に重なる小説が発表され、高い評価を受ける。アメリカの懐の深さを感じさせる。

『問う者、答える者』では甘言を弄してトッドやヴァイオラを利用しようとする卑劣な大人達と、それに負けずに非協力を貫くトッドやヴァイオラが対照的であった。しかし、スパクルの攻撃という非常事態にあって、トッドやヴァイオラの毅然とした非協力性は弱まった。

後半では人々の進むべき展開が予想つくようになった。これは日本のサブカル文化に親しむ者にとって馴染みのある展開である。『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画である。ラスボスが自分の強大な力を制御しきれず、実は倒されたがっていたという展開も日本の漫画・アニメによく見られる。
http://hayariki.net/home/37.htm
日本のサブカル作品では主人公が人類補完計画的なものを否定することが常道である。それに対して本書は人類補完計画的なものを好意的に描く。集団主義的な日本のサブカル作品が人類補完計画に抗い、個人主義の米国で生まれた本書が人類補完計画に肯定的であることは一見すると奇妙である。日本社会が個性を抑圧するからこそ、抑圧された日本の表現者は作品世界では集団主義を強く否定する。逆に米国は個人が自立し、人類補完計画に現実味がないから、ユートピア的に描くことも許される。

この点で日本のサブカル作品に親しんだ身には面白みに欠けるが、ラストは予想外の展開であった。「めでたし、めでたし」となると予想したところで急転直下となる。物語は新世界の未来を左右する大きなものとなったが、最後はヴァイオラとトッドの物語として締めた。人々も様々な考えの人がおり、人類補完計画的な方向に一挙に進むこともない。安直な人類補完計画礼賛に陥っていない作品である。

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