2013年9月29日日曜日

映画『風立ちぬ』

スタジオジブリのアニメ映画『風立ちぬ』の主人公は体制を支える側の人間である。同じ飛行機映画『紅の豚』の主人公はアウトローであった。『風の谷のナウシカ』のナウシカは王道楽土を建設するという侵略者の論理と戦った。『天空の城ラピュタ』のシータとパズーは滅びの呪文バルスによってラピュタを滅ぼした。『もののけ姫』は歴史で無視されがちな公界の民にスポットライトを当てた。それに比べると『風立ちぬ』は薄い。
映画『風立ちぬ』は大きな議論を巻き起こしている。侵略戦争肯定や喫煙助長などと批判されている。私見はサナトリウム文学とのギャップという点を指摘したい。『風立ちぬ』というタイトルからはサナトリウム文学を連想することは当然のことである。映画でも結核患者が登場する。しかし、サナトリウム文学の特徴である長期に渡る療養生活、それを看とる配偶者という要素は映画にはない。反対に自分が美しいところだけ好きな人に見てもらいたい結核患者の思いが説明される。これは不健康な状態を認めず、パッと咲いてバッと散るという危険な思想にも通じる。重病人や他人のお荷物になる人間は生きる価値がないという危険な思想にもつながる。サナトリウム文学とは対極の位置にある。
結核は難病であったが、すぐに亡くなる訳ではない。サナトリウム文学には長い療養生活の中で、ゆったりした時間が流れていた。それは患者本人だけでなく、付き添う婚約者にも当てはまる。現代人からは信じられないような、ゆったりした時間である。そのゆったりした時間の中でサナトリウム文学という豊かな文学が生まれた。
単純に昔の方が良かったと言うつもりはない。長い療養生活を送れた人は恵まれた人であっただろう。それでもサナトリウム文学の豊かさを踏まえると、「親の介護は地獄だ」という言葉がまかり通る現代日本の貧困を強く実感する。
ところが、映画の主人公は仕事中毒である。ヒロインも自分の美しい時だけ一緒にいたいという発想である。病気に寄り添い、死に寄り添うという思想がない。サナトリウム文学と真逆の映画である。
『風立ちぬ』が戦争肯定映画か否か議論されている。特別高等警察という軍国主義の暗部が描かれている。主人公には国を滅ぼしたという反省も述べさせている。それ故に『風立ちぬ』を教条主義的に批判して、まるでネット右翼と同じ側に追いやってしまうべきではない。
一方で侵略される側の痛みという視点はない。被害者感情は豊富であるが、加害者意識に欠けるという日本人一般の意識を反映している。宮崎監督は「その時代を精一杯に生きた」と擁護する。その時代に獄中で侵略戦争反対を貫いた人々がいたことを考えると、自分の持ち場で精一杯に生きたことを素晴らしいとは思わない。むしろ、そのような人々が戦争体制を支えたと言える。反戦平和運動は、戦争中に戦争反対を貫いた人々の系譜だけが唱える資格があるとは思わない。むしろ、精一杯に生きた人々の真摯な反省に基づく平和運動は、平和運動は国民的な厚みを持つ上で重要である。となれば『風立ちぬ』は、仕事中毒や健康状態ならば生きている価値がないというような根っ子の価値観こそ問題がある。それが戦前から戦後に続く日本の無反省な連続性を支えている。宮崎アニメは『千と千尋の神隠し』でも理不尽な状況に追い込まれた子どもが頑張る姿を生きる力と持て囃した。映画が直接描かない戦争被害の悲惨さは、鑑賞者の想像力で十分補えるように描かれている。それよりも軍
国主義の土台になった特殊日本的精神主義に無批判な点が気になった。

林田力 東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った 二子玉川ライズ反対運動 wiki Facebook リアルライブ Amazon アマゾン (^-^)v 記者 本が好き レビュー

0 件のコメント:

コメントを投稿