2013年8月31日土曜日

リベラル邪悪論

リベラルは何となく肯定的に評価される言葉であるが、リベラルという曖昧な言葉に逃避する害悪に注目すべき時期に来ている。かつては私も自己をリベラルと規定しようとしたことがない訳ではない。それは自己の主張だけが唯一絶対という偏狭で独善的な左翼教条主義と対置する場合に意味を持った。しかし、左翼教条主義と一線を画したいならば、ポストモダン的な価値多元主義をストレートに宣言すればいい。それをリベラルと言っても立場は不明確である。
リベラルという言葉の問題は曖昧であり、何も言っていないに等しいことである。現代日本でリベラルと言えば左派リベラルを連想することが多い。一方で新自由主義的な立場をリベラルと称すこともある。二十世紀米国ではリベラルは左派であるが、リベラルの本来の意味や十九世紀イギリスの政治的文脈を踏まえれば、新自由主義者をリベラルと呼ぶ方が適切である。さらに米国流左派リベラルにしても、日本で期待されている左派リベラルと比べれば保守的である。日本には日本の政治課題があり、日本のリベラルが英米のリベラルと異なっても問題ではないが、それをリベラルと呼ぶことに、どれほどの意味があるだろうか。
リベラルには過激な主張の排除の意味・効果があるが、これは有害である。脱原発は福島第一原発事故前は過激な主張であった。リベラルという枠をはめることは停滞をもたらす。
もっと生々しい観点としてリベラルは共産党排除の意味・効果がある。これも有害である。脱原発やTPP反対、消費税反対など左派リベラルが求める当面の具体的政策は共産党と変わらなくなる。市民派統一候補となった宇都宮けんじ候補の政策が好例である。
非共産という考え方自体は頭ごなしに否定できるものではない。共産主義者でないためである。脱原発を追求する人にとって、共産主義革命の一里塚として脱原発を目指す人にはギャップがある。故に非共産の志向も合理性があるが、そこにリベラルという性格を付すならば共産党よりも不徹底な政党になってしまい、市民派からは物足りなくなる。
この点で宇都宮選挙は大きな意義があった。宇都宮けんじ候補は浅野候補に比べると、リベラル色が弱かった。それが得票の限界になったが、そこが確固とした出発点になる。
反貧困運動という資本主義の矛盾に取り組み、サラ金という一つの産業を破綻に追い込んだ。これは穏健ぶったリベラルでは到底できないことである。

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