2012年10月7日日曜日

クッチャー『濡れた魚』v 林田力 wiki書評

フォルカー・クッチャー著、酒寄進一訳『濡れた魚』(創元推理文庫)は戦間期のドイツ共和国(ワイマール共和国)首都ベルリンを舞台としたミステリーである。主人公はベルリン警視庁刑事ゲレオン・ラート警部である。ラート警部は、わけあって故郷ケルンの殺人捜査官の職を離れ、ベルリン警視庁風紀課に身を置く刑事である。殺人課への異動を目指すラートは、深夜に自分の部屋の元住人を訪ねてきたロシア人の怪死事件の捜査を密かに開始する。

『濡れた魚』は文庫本上下巻である。多くのミステリーと同様に上巻だけでは事件の全貌は不明なままである。それでもタイトル「濡れた魚」の意味や陰謀の目的が明らかになり、物語に引き付けられる。ミステリーの中にはラストで全ての伏線を結び付けようとするあまり、序盤中盤では話の方向性が見えず、読むことが苦痛になる作品もある。ほとんど捜査に進展がないにも関わらず、適度に謎を明らかにする『濡れた魚』の筋書きは巧みである。

『濡れた魚』には殺人事件あり、ロマンスあり、警察組織内部のセクショナリズムあり、主人公の過去あり、社会情勢ありと様々な要素が詰め込まれている。特に社会情勢の描写は深い。一般にワイマール共和国は当時の世界で最も民主的な共和国と評価される。そこからナチス独裁が誕生したことは民主主義のパラドックスと受け止められる。

しかし、実際はワイマール共和国の民主主義に限界があったからこそナチスの独裁を許した。『濡れた魚』で描かれた社会民主党政権による共産党デモ弾圧や退役軍人によるドイツ革命への不満は後にナチス独裁を許したワイマール共和国ドイツの民主的基盤の脆弱性を物語る。

社会民主党政権は帝政ドイツではラディカルな存在であった。それが政権党になった途端、反対勢力を弾圧する側に回ったことは社会民主党の限界を示している。鉄兜団などの民間軍事組織の暗躍は、ヴェルサイユ条約によって徹底的に弱体化されたドイツがヒトラーの再軍備によって瞬く間に軍事大国化した背景が理解できる。

一方で『濡れた魚』に描かれたナチスは新興勢力に過ぎず、小物に過ぎない。ワイマール体制の崩壊は必然でも、反動勢力を押しのけてナチスが独裁権を確立することは自明ではない。『濡れた魚』はシリーズ物の第一作であり、ナチスが勢力を拡大する背景描写に注目である。
http://hayariki.jakou.com/7/4.htm
『濡れた魚』では、どこの社会でも共通する不都合な事実を隠す警察の体質が描かれる。横あるパターンとして証拠の隠滅や捏造があるが、『濡れた魚』では警察の不利になる証拠そのものは隠さずに報告書での悪意ある印象操作によって「物的証拠を法廷で使い物にならなくした」(上巻128頁)。

それに対して主人公は反倫理性を感じながらも、「警官が警察の不利になることを証言するなどありえない」と考える(上巻129頁)。『ポチの告白』に登場するような悪徳警官でなくても警察には身内を庇う体質がある。それが警察問題の深刻さを物語る。現実に『濡れた魚』の解決法は警察の隠蔽体質の範囲内であった。ヒロインの折角の名台詞「正義が行われることを望むなら、すべてを明らかにするほかない」(下巻294頁)がもったいない。しかし、そのためにリアリティのある物語に仕上がった。(林田力)

0 件のコメント:

コメントを投稿