2012年3月15日木曜日

平清盛の画面の汚さの理由

平清盛の画面の汚さは日本社会の後進性を象徴する。画面の汚さは時代状況を再現する意図が込められているとされる。これに観光地としての魅力をアピールしたい兵庫県知事が食いついた形である。自動車の排気ガスも視界を妨げる高層ビルもない平安時代が現代よりも暗く汚いとは一概に言えない。
暗く汚い画面は当時の環境の再現よりも、朝廷政治が行き詰まった世相を演出するためのものである。この点で幕末の封建社会の行き詰まりを出発点とした龍馬伝が暗く汚い画面であったことと共通する。
暗く汚い画面は社会の反映である。社会の閉塞感を打ち破る主人公の明るさを際立たせる効果がある。そのような主人公として坂本龍馬はうってつけのキャラクターであった。暗く汚い画面にも関わらず、福山雅治演じる龍馬は同時期に放送された仁の龍馬よりも綺麗過ぎると言われたほどである。
これに対して平清盛は松山ケンイチ演じる主人公が汚い。これは不幸な生い立ちを知って無頼となった清盛の心象風景を反映するが、問題は清盛の無頼に共感できないことである。
第1回は清盛の父親の平忠盛が主人公であった。朝廷の番犬である武士の虚しさ、白拍子の舞子との心温まる交流、白河法皇への命がけの訴え、白河法皇の非情な命令が描かれ、大いに感情移入できた。
それに対して成長した清盛は衝撃的な生い立ちを知ったショックがあるとは言え、父親の気持ちを知らない親不孝者にしか見えない。清盛の無頼はグレたヤンキーと同レベルで、大河ドラマの主人公にふさわしくない。これでは人気がでなくても仕方がない。
清盛は海賊征伐で清盛に出生の秘密を教えた兎丸と再会し、鬱屈した怒りをぶつける。これによって無頼から卒業できたが、その後の「光らない君」でも依然として清盛は汚い。雅な朝廷と粗野な武家という対比を狙っているが、貴族化した武家という平家のイメージに合わない。源氏への敗北によって平家の貴族化は弱体化というマイナスイメージがあるが、平家の公達は伝統的な公家以上に雅で宮中の人気を誇った。平家は武力だけでなく、洗練さでも公家を圧倒した。
姫君は未だに王朝文化の世界にいる姫たちは汚い風景や主人公を対比させる筈であるが、汚さを払拭するまでには至っていない。誰も彼も第一印象は最悪であるが、惹かれていくというステレオタイプで恋愛物としては底が浅い。
汚い画面の中で輝いているものは当時の先進国・宋からの輸入品である。密貿易で入手した宋の文物を都で売る兎丸達を信西は庶民に先進文化を触れさせると高く評価する。ここには当時の日本は後進国であり、中国の文明に学ばなければならないが、守旧的な支配層によって妨げられているという視点がある。
この視点は物議を醸している王家の用語使用に積極的な解を与えるものである。実は王家という言葉が時代考証的に正しいかという点は議論の本質ではない。当時の天皇家を指して王家という言葉が使用されていたという史料が提示されたとしても、批判派は納得しない。皇帝よりも格下の王という表現を選択した意図が問われているためである。林田力
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